magurit’s blog

はてなダイアリーからの移転です!

町田 康(2006.11.05日曜・読売朝)より

 

ウディ・アレンの漂う電球

ウディ・アレンの漂う電球

  『ウディ・アレンの漂う電球』
  日々の生活に窮し,日によってはその日食べるものにも事欠き,
 将来になんの展望ももてず,打つ手はもはやないが,死ぬに死に
 きれず,酸素不足の金魚のように生きている,というのはなんと
 も辛い状況であるが,この戯曲に登場する,ブルックリンの朽ち
 たアパートに住む一家はまさにそのような状況にある。十六歳の
 長男は吃音障害のある引きこもりでマジックの練習に没頭してい
 る。父親はウェイターをして稼いだ僅かな金を賭博と女につぎ込
 み,それゆえできた借金に追われ,がためにその妻は家計のやり
 くりに疲れ果て,十三歳の次男はギャング予備軍のようなことを
 しており,一家は精神的にも経済的にも崩壊寸前である。
  このような生活をして人はどんな希望を持てない。しかし,こ
 のような暮らしをしているからこそ見ることができるものがある。
 なにか。夢である。富みのある人にとってその資産は現実なので,
 その富みを現実的に管理しなければならないが,貧しい人は夢を
 見ることができる。それは,賭博で目と出て莫大な富を手中にで
 きたら。すべてを捨てて若い女とフロリダに行って人生をやり直
 すことができたら,という夢であり,また,もし息子がもし天才
 だったら,とか,もしダンサーを続けていたら,という夢であり,
 こんな自分にも新しい恋ができるかも知れないという夢である。
  ただそれは長男が没頭するマジックが奇蹟ではないように,苦
 しさから一瞬逃れるために観た儚い幻に過ぎず,そのような夢を
 観た後の現実は宿酔のように無惨で,垣間みた夢によって人々は
 なお追い詰められる。だからなお人は夢を信じたくなる。電球は
 本当に空中に漂っているのだ,と思いたくなる。狭苦しいアパー
 トの一室を漂う,ちゃちな仕掛けを施した電球の光がせつない。
 再チャレンジできないし。鈴木小百合訳。
  ◇Woody Allen=1935年,米・ニューヨーク生まれ。映画監督,
 脚本家。77年,『アニー・ホール』でアカデミー賞
 (2006.11.05日曜・読売朝・14面)