今日の読売新聞の【読書欄】。
川上弘美の評文は,やはり旨い。
『そして,ねずみ女房は星を見た』という本
だが,
「・・・抜きだすことは難しい。」と文章を始
めておき,
「それでもあえて一つ抜きだすとすれば,・・」
でおさめる。
そして,その抜きだされた部分が
「憧れを手放さなかった人だけが手にすることのできる静謐」
なのだから,思わず唸ってしまう。
さらに,
・・・平明な言葉で書かれた物語から,ねずみ女房がたどり着いた
この深い境地を汲みとること。それは誰にでもできることではない
けれど,また一方,誰にもできうることなのだと,本書は教えてく
れる。物語を読むことの,よろこびと,驚きと,幾分かの苦み。読
み続けるかぎり,それらは常に姿を新たに,私たちを訪れつづける
ということが,なんと顕かに,本書には書かれていることだろう。
と結ばれていた。
(評分の全文 http://d.hatena.ne.jp/magurit/19311105)
こういう文章に出会うと,”本・書物*1”が
分け与えてくれる温もりに,やさしさに,感謝したくなる。
ところで,その一段下には,町田 康という作家の評文があった。
『ウディ・アレンの漂う電球』という本なのだが,
どうも,町田氏の評文は好きになれない*2というか,気持ちが沈んでしまう。
”夢”という言葉に対してもイメージが実に暗い(苦笑)。
(評分の全文 http://d.hatena.ne.jp/magurit/19321105)
こんな文章を読むと,ますます人生が荒んでいく様な気分である。
まぁ,これが彼のスタイルなのだろうから仕方ないのだろうけど,
”そう斜に構えなくても・・・”とも思ってしまう。
で,”暗い日曜日”でも聴いて,「とことんまで落ちて,昇るのを待とうか」と
思ったが,次のページの内田 樹氏の文章「本の方が読者を選ぶ」で,
救われる?,いや,はたと膝を打った*3次第(苦笑)。
本は読者が主体的に選ぶものではなく,むしろ本の方が読者を呼
び寄せる。私はそう信じている。
だから,「積ん読」というのもすぐれた読書術の一つと言えるのである。
・・・(中略)自分でも忘れてしまった本であるにもかかわらず,私がそ
のとき読みたいと願っていた当のその本なのである。
これは決して偶然ではない。というのは私たちの認識能力は,思われて
いるよりはるかにすぐれたものだからである。・・・(中略)・・・
・・・
だから,当然「濫読」というときにも,実はジャンルの選択を知らぬう
ちに済ませているのである。・・・
(全文は,http://d.hatena.ne.jp/magurit/19331105)