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川上弘美(2006.11.05日曜・読売朝)

  

そして、ねずみ女房は星を見た〈大人が読みたい子どもの本〉

そして、ねずみ女房は星を見た〈大人が読みたい子どもの本〉

 『そして,ねずみ女房は星を見た』
  子どものために書かれた物語の中から選った十三篇について,
 『ゲド戦記』の訳者でもある著者が考えたことが,記されてい
 る本である。
  さてそれでは,具体的にどのようなことが書かれているのか。
 抜きだすことは,難しい。たとえば表題にもなっている『ねず
 み女房』についての章。住んでいる家の外を知らないねずみ女
 房が,ある日外の世界を意識し始めて・・・と要約することも
 できる物語なのであるが,要約を読んだ皆様は,それではこの
 章には「女性の自立」というようなことが書かれているのかな,
 と思われるかもしれない。
  書いては,ある。けれどその書かれかたは,独特である。
 「女性の自立」について,様々に語られてきたその過程で変質
 してしまったもの,あるいはこぼれ落ちてしまったもの,そし
 てまたずっとありつづけたもの,それらごっちゃに混じった玉
 石混淆の中から,ほんとうに大切なことだけを,著者は細心の
 注意でもって拾いなおし,磨きなおしして,書いている。とも
 すれば陥ってしまいがちな,大雑把で惹句に満ちた物言いから
 は遠く離れ,微妙で繊細で陰影に富んだ言葉を,丹念に重ねて
 いる。そのていねいさが,素晴らしい。それゆえに,本書の中
 から無造作に「これ」と行を抜きだすことが難しい,というこ
 とになるのではあるが。
  それでもあえて一つ抜きだすとすれば,この章からは「憧れ
 を手放さなかった人だけが手にすることのできる静謐」という,
 老いたねずみ女房に対する言葉になろうか。平明な言葉で書か
 れた物語から,ねずみ女房がたどり着いたこの深い境地を汲み
 とること。それは誰にでもできることではないけれど,また一
 方,誰にもできうることなのだと,本書は教えてくれる。物語
 を読むことの,よろこびと,驚きと,幾分かの苦み。読み続け
 るかぎり,それらは常に姿を新たに,私たちを訪れつづけると
 いうことが,なんと顕かに,本書には書かれていることだろう。
  ◇しみず・まさこ=1941年生まれ。
 (2006.11.05日曜・読売朝14面引用)