戦時中,黒沢明監督がシナリオを書き,映画化されなかった作品に「サンパギタの花」が
ある。内務省の検閲に引っかかった。自伝『蝦蟇の油』に書かれている。◆登場人物が誕生
日を祝うシーンがあり,「米英的で,けしからん」と検閲官に難詰された。天皇陛下の誕生
日をお祝いする天長節も米英的ですか?(と)反論したが,「不可」の決定は覆らなかった
という。◆この頑迷な検閲官氏を,戦後の日本人が笑えるかどうか分からない。かつて米英
的なにおいのするものを十把ひとからげに忌避したように,わずかでも戦前のにおいのする
ものを自己検閲によって封印してきた戦後の歩みがある◆「終戦の日の青空のなかに私たち
は忘れ物をした」と語ったのは作家の久世光彦さんだった。忘れ物----「国を愛する心」や
「国を守る備え」を説く声が,軍国主義の復活だ,戦前回帰だ,という批判にかき消された
61年間である◆戦後の日本は平和のおかげで復興し,いまの繁栄を手にした。誰よりも平
和のありがたみを知り,かつての軍国主義が二度と手にしてはならぬ危険な廃棄物であるこ
とを知っている。忘れ物探しの旅に出て,廃棄物と忘れ物を混同することはもはやあり得な
い◆教育基本法の改正も,防衛庁の「省」昇格も,自己検閲に別れを告げる一歩だろう。旅
の始まりである。
(2006.12.16・土曜 読売朝刊「編集手帳」より引用:途中の(と)は文責magurit)