あまりに酷い新聞のコラムを読んでしまった。
これでは,「美しい国,日本」どころか,
「見苦しい国,日本」を強調するだけだ。
コラムは新聞の身近な顔だけに,ここに,
著作物の文章を使って,編集者個人の感情を
意見を,押し付ける様なことがあっては,断じて
ならない。
田辺聖子展に関わったからといって,この使いかたは,著者は理解できているのか?
さらに,著作名を『』でなく,「」で記す等,編集者としての基本でさえも守れないのかと,
無知・不勉強を越えているではないか・・・。
自分の意見を書く勇気も責任感も無いから,他人の文章をつかって,卑怯この上ない。
そこで,田辺氏の意見とは考えず,編集者個人の考え(を書く技術が無いから他人の文を盗用した)
と捉えて以下の様に編集者の姿勢*1を批判したい。
まず,
「日の丸に悪いイメージがあるなら,それを善いほうへ転換するようにつとめたらいい」
「日の丸に悪いイメージ」。
「日の丸」=「悪い」しかないのか?
①「日の丸に悪いイメージ」
②「日の丸に善いイメージ」
③「どちらでもない」
などと3パターンでも少ない。何故ならば,これは,人の心情だから。
④「日の丸に悲しい(思い出)イメージ」
⑤「日の丸に悲しいが,その前の良い思い出をイメージ」
だってありではないか?
これを「日の丸に悪いイメージ」だけで話を展開しようというコラム編集者には,
悪意こそ感じられ,正義感すら微塵とも感じられない。
さらに,
「超党派的に,それはそれとして,中心に据えておかねば,という思い」
「超党派的に」という言葉は,ここでは「ご都合主義」と言い換えても差ほど間違いでは
ないだろう。
「ご都合主義」を社会に蔓延させた,あの男*2の片棒をまだ担ぎたいのか?
その結果が,現在の日本ではないか・・・。
「という説もあるが,それはかえって混乱を招き,意見の統一など百年河清をまつに等しいだろう」
と,決めてしまえる検証結果はどこにあるのか?
これも一つの説。あれも一つの説。
話合いの末,そのどれかを実施して,始めて,分かる事である。
つまり,”実験観”が皆無であることを証明してしまっている。
まさか「試験管を振るのが実験」「右のビーカーの試薬を左のビーカーに移す事が実験」等と
本気で思っているのでは・・・。戦後,最初の社会科の教科書『民主主義』の上巻の冒頭を
読んで欲しい。社会”科学”でも人文”科学”でも,問いかけて調べる行為こそ実験だと謳われ
ている。「科学実験の様に幾つもの選択肢を,”政”では安易に順番に確かめる事が出来ないから,
よく話し合い,お互いの妥協できる点まで意見を調節し方向を定める。それでも,方向が決まら
ない場合,取り敢えず,多数決で方向を決めるが,間違っていたら,即座に変更していく事が
これからの日本では,行われる。それが民主主義である」といった内容が書かれている。
「意見の統一など百年河清をまつに等しい」
百年待てば,多くの凝り固まった輩は天寿を全うする。その後なら,変わる事もあり得る。
だから,こんな言葉を安易に使ってはダメダ。
「最高裁が〈君が代伴奏命令〉に合憲判決。当然であり良識の判断と思った。」
そうだろうか?
決して「最高裁」は間違いを起こさないのか?
ならば,マスメディアの仕事は減るのではないか?
「袴田事件の特別再審請求に,当時の唯一の生き残りの裁判官が後悔の涙*3ながらに,協力したい」と言っていたあの姿をどう説明するのか?
誰の本を使って言い訳するのだろうか・・・『わが闘争』でしょうかねぇ?
その原文となるコラム*4は脚注にあります。
田辺聖子氏を非難する為のものではありませんので,誤解の無いようにお願いします。