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板倉聖宣「〈授業漢字〉という漢字 - 「莫=バク」という字 - 」

  板倉聖宣*1
 ◆〈授業漢字〉とは 
  ずっと以前,「〈教育漢字〉とは別に〈”授業”漢字〉というものを考えたほうがいい」と
 いうことを提唱しかけたことがあります。そのときは,「少しでも教える漢字をへらした
 い」という,ある校長さんの猛反対にあって,引っ込めたのですが,改めて提唱したいと
 思います。
  〈授業漢字〉というと,「〈溶解・結晶・原子・分子〉など授業書*2に出てくる漢字は,
 たとえまだ国語で教えなくても,教えてしまったほうがいい」という話かと思う人もいる
 かもしれませんが,今回の話は,それとは別の話です。
  じつは最近,たまたま「莫」という文字のことが気になったので,〈授業漢字〉のこと
 を思い出したのです。            
  あなたは,「莫」という字を知っていますか。音(オン)は「バク」,意味・訓は「ない」
 です。
  この漢字は常用漢字外なので,知らなくてもいいのですが,授業のとき教えておくと便
 利な字なのです。
  「莫(バク)」の字は知らなくても,「(墓*=ボ)・(暮*=ボ)・(幕*=バクマク)・(模*=モ・ボ)・
 摸=モ・獏=バク・貘=バク・漠*=バク・膜*=マク・募*=ボ・慕*=ボ」はどうでしょう。この11の
 漢字のうち,()にした4文字は教育漢字で,*を付した8字は常用漢字です。だから,全部
 は知らなくても一部は知っているでしょう。これらの漢字はみな「バク・マク・モ・ボ」と
 発音しますが,それらはみな〈莫〉の字が隠れているからです。
  「莫」という漢字は,常用漢字にはなっていなくても,常用漢字になっている文字を含
 めて,もっと複雑な漢字の一部として利用されているのです。
  ですから,「そんな難しい字は教えられない」とは言いにくい漢字なのです。だからと
 言って,私は,「〈莫〉という文字も常用漢字や教育漢字に加えるべきだ」とは思いませ
 ん。
  しかし「漢字を教える授業の都合上,こういう字も教えたほうがいいのではないか」と
 思うのです。このほかにも「記憶させる必要はないが,漢字を教える授業の都合上,積極
 的に教えたほうがいい」という文字がいくつかあると思います。「そういう文字を〈授業
 漢字〉とでも名付けて意図的に研究したほうがいいのではないか」というのです。
  その一例として,今回は「莫」という字を取り上げて検討したいと思います。この字を
 教える時期は,「漠・模・膜・幕・募・墓・慕・暮」といった漢字のいくつかを教えるこ
 ろがいいと思います。小学校6年生か中学高校で教えることになるでしょうか。しかし,
 いまの今は,『たのしい授業』の読者を対象にして論を進めて,興味を持っていただける
 かどうか,お聞きしたいと思います。

 ◆「莫」という漢字の意味
  それには,まず「莫」という漢字の意味を知らないと話になりませんので,その説明か
 ら入りましょう。
  「莫」という漢字はふつう〈バク〉と発音しますが,〈モ・ボ〉と発音することもあり
 ます。この文字は,藤堂明保編『(学研)漢和大辞典』(1978年初版)によると,
 「〈草=クサ〉むらに〈日〉が没して見え〈莫=ナク〉なるさま」をあらわす字だといいます。
 この字はふつう使いませんが,〈莫大=バクダイ〉という熟語に使われています。これは
 「それより大きいものは〈見え莫=ナイ〉ほど大きい」という意味です。
  私は,中学生時代に「〈莫大小=バクダイショウ〉と書いて〈メリヤス〉と読む」と知って
 驚いた記憶があります。メリヤスというのは「糸を機械で編んで伸縮自在にした布」です。
 そこで「大小が〈莫=ナイ〉という意味で,〈莫大小〉と書いたのだ」という話をきいて,
 面白いと思いました。その後,「莫逆=バクギャクの友」と言えば,「互いに逆らいあうと
 ころの〈莫=ナイ〉友」のことで,親友のことを言うと知りました。
  この「〈莫〉という字は〈見えない〉という意味の文字だ」ということを知っていると,
その字を含んだ漢字の意味を理解するのにしばしば役立つようになります。
  たとえば,「砂漠=サバク」の〈漠〉の字です。「漠」の〈シ=さんずい〉は「水」のこと
 ですから,それに「見え莫=ナイ」を結びつけると,この漢字は「〈水〉が〈見え莫=ナイ〉」
 という意味になります。そこで「砂漠」というのは,砂ばかりで〈水〉の〈莫〉ところで,
 文字どおり〈さばく〉のことになります。
  そんなことは,大して感心できることではないかも知れません。しかし,「漠然=バクゼン」
 という熟語は,「はっきり〈見え莫=ナイ〉状態」だと理解できると,少しは嬉しいのでは
 ないでしょうか。すると,寂寞=セキバクという言葉も何となくわかってくるでしょう。

 ◆「木へんの莫」と「手へんの莫」
  この原稿を書きはじめるまで,私は〈木へんの莫=模〉と〈手へんの莫=摸〉の字がゴチ
 ャまぜになっていました。しかし,この二つの漢字はもともと別の字でした。すなわち,
 「模型・模範・模写・模倣・模造(模造紙)・模様・規模」の〈模〉の字は木へんで,
 「摸索・摸刻・摸擬」の〈摸〉は手へんだったのです。
  しかし,「摸」の字は常用漢字になっていないこともあって,〈模〉を〈摸〉の書き換
 え字としても用い,今では模索・模刻・模擬と書くのだそうです。
  そこで,この二つの漢字の成り立ちを見ると,模型の「模」の字は,「〈木〉でつくっ
 た型の上に粘土をかぶせて〈見え莫=ナク〉して型をとる」意味の字(以下,漢字の字解は
 みな,上述の藤堂明保編『(学研)漢和大辞典』による)なのだそうで,〈かた・のっと
 る〉の意味の漢字だそうです。
  ところが,摸索・摸刻・摸擬の〈摸〉の字は,「〈見え莫=ナイ〉ものを〈手〉でさぐる」
 意で,〈さぐる・なでる・まねる〉という意味なのだそうです。そう言われてみれば,ナ
 ルホドと思えます。しかし,今ではみんなその区別が分からなくなっているので,摸索・
 摸刻・摸擬の〈摸〉も模型の〈模〉の字を使うことになっているわけです。

  「二つの漢字を同じ意味に使っている」といえば,〈獏=バク〉と〈貘=バク〉は〈ケモノ
 へん〉と〈ムジナへん〉の違いですが,どちらも〈バク〉という同じ動物をさす漢字にな
 っています。もともと,バクというのは〈鉄や銅を食い,人の悪夢も食う〉という想像上
 の動物の名でした。ところがその後,〈考えていることがいかにも漠然としているように
 見える動物〉が見つかりました。そこで,その実在の動物が〈獏=バク〉と呼ばれるように
 なったのです(ついでに言うと,「蟇=蟆」はガマ=ヒキガエルです)。

 ◆膜と幕
  〈膜〉と〈幕〉とは,ものがまったく違いますが,同じく〈まく〉と読むので,何となく
 似たところがあります。それもそのはず,右側と上に同じ〈莫〉の字が入っているからで
 す。
  〈膜=マク〉の左側の字は,天体の〈月〉ではなくて,〈肉〉の字が変形したもので〈にく
 月=ヅキ〉と読みます。そこで,この漢字には,「内側をおおって〈見え莫=ナク〉する肉(月)
 =まく」の意味があるそうです。そこで,肋膜=ロクマク・角膜=カクマク・結膜=ケツマク炎・網膜=モウマク
 というように使うのです。
  しかし,〈幕=マク・バク〉の字のほうは,「物をおおって〈見え莫=ナク〉する〈布=キレ〉」の
 意味があるそうです。そこで,同じ〈まく〉でも,「天幕・煙幕・幕内(入幕)・黒幕=マク
 /幕=バク府(幕末・倒幕・佐幕)」というように使います。〈将軍の起こした政権〉のこと
 を〈幕府〉というのは,もともと武将は〈幕を張って本営とした〉ことにもとづきます。

 ◆募・墓・慕・暮
  幕の字にも幕の字が入っていることに気づくと,「募・墓・慕・暮」という漢字にも幕の
 字が入っていることが分かってきます。
  〈募〉の字には〈つのる〉という意味があって,「募集・募金・公募・応募」などと使い
 ます。どうして,〈莫と力〉で〈つのる〉の意味になると思いますか。
  藤堂明保編『(学研)漢和大辞典』によると,〈募〉という漢字は,もともと「持って
 〈莫=ナイ〉から〈力=ツトメテ〉求める」の意味で,〈つのる〉になるそうです。

  墓地・墓所・墳墓=フンボの〈墓=ボ〉はもちろん〈はか〉のことで,〈莫と土〉の字からで
 きていますが,〈莫と土〉でどうして〈はか〉の意味になるのでしょうか。
  これは,〈はか〉が「死体を〈土〉で〈見え莫=ナク〉したもの」だからだそうです。

  〈慕=ボ〉という漢字は,「思慕・慕情・恋慕」というように使いますが,〈莫と心〉から
 なっています。どうしてそれで〈したう〉の意味になるのでしょうか。
  これは,「身近に〈見え莫=ナイ〉ものを〈心〉に求める」という意味で〈したう〉になるそ
 うです。

  それでは,〈御歳暮=オセイボ,夕暮れ〉などの〈暮=ボ・グレ〉の字は,〈莫+日〉で,どうし
 て〈暮れ〉の意味になるのでしょうか。
  これは,「〈日〉が〈見え莫=ナク〉なるころ」の意味になるのだそうです。

  漢字の文字の成り立ちには,〈その説明を聞いてもあまり納得のいかないもの〉も,たくさ
 んあります。そこで私は,〈いつも字の成り立ちに深入りする〉のには反対です。しかし,
 〈莫〉の字の入ったものは,〈莫=見えない〉という意味を知っていさえすれば,分かりやす
 い説明が多いと思うのですが,どうでしょうか。
                                  (2003.2.11)
  引用.『たのしい授業』(仮説社)2003年4月号 56-60ページ

  
  雑誌の読者に対して投げかけつつも,興味関心を研究に近づける論法など,
 学ぶ処が多いので,今後の日記に,参照しやすいように,
 敢えてここに「覚え書き」として引用した。(2007.06.02)
 
 

*1:板倉研究室。仮説実験授業研究会代表,月刊『たのしい授業』代表

*2:仮説実験授業で使われる「教科書兼ノート兼問題集兼実験書」。『仮説実験授業のABC』(仮説社)を参照のこと。