習字の時間というのが小学校にあ
って,大の苦手だった。どうしても
うまく書けなかった。
「もっと丁寧に書きなさい」と言わ
れた。「丁寧に書く」というのはど
ういうことなのか,理解できなかっ
たゆっくり書けばいいのかと思った
ら,そうではないらしい。
「力がこもっていない」,というの
で,更に分からなくなった。柔らか
な毛筆の先に力が込められるわけが
ない。力強く書いたら,紙がやぶけ
てしまうではないか。
「姿勢が悪いのだ」と言われたりし
ても,背中を伸ばしたら,字が書け
なくなってしまう。「気持ちがこもっていない」といわれても,「希望」やら
「日の出」というような言葉に気持ちの込めようがない。
冬休みの宿題に,書き初めというのが出される。これが何よりの憂鬱で,た
いていは家の誰かに書いてもらった。先生は分かっていたと思うが,何も言わ
れなかった。生涯毛筆は書くもんかと思い,今に至っている。(後略)
『ダカーポ』「ことばのことばっかし」金田一秀穂「書の言葉」2006.1/4・18号575
昨日の日記で,哲学的な話は終わりのつもりが,『ダカーポ』で上の文章を
見つけてしまったので,少しだけ付け加えておきたくなった*1。
昔「パペポテレビ」で,笑福亭鶴瓶か上岡龍太郎も言っていたが,小学校で,
教師に「もっと,落ちつきなさい」と叱られていたそうな。だが,「”落ち
つく”とはどうすればいいのかわからない」と。
最近の教育・人(子)育ての話も「個性尊重」とか「自主性を伸ばす」が宣伝の
常套句の様に思ったりする。
けれど,人それぞれ(まして子供なら尚更)「わからない」事は色々な意味を
含んでいると思うのだが,それが「わからない」指導者・大人がいて閉口する。
「”何が分からないか”がわかってない」からますます泥沼に陥る。
どうして,そこで,「どこが,どうわからないの?」と一歩止まって相手の
言葉を理解しないのだろう???
私も小学校の頃,体育オンチ*2で,
走るのも遅かった。”運動(体育)はダメなんだ”と植え付けられて*3いた。
50mのタイムを計っても,小学校3年から5年までずっと,10秒フラット。
走り方について,教師(体育専科が授業していたが)は何も指摘しなかった。
6年生の頃,偶然にも”つま先で走る”とスピード感を感じた。
その年の50mの計測の時,試してみたら,9秒台に。
中学に進級して8秒台から7秒台後半で走れた。
すると,体育は”死ぬほど嫌”から”器械運動と水泳は嫌”に格上げである。
つまり,べた足で走ればどんな人でも早く走れるハズがナイ。
それを指摘できない。指摘しても無駄と思う指導者・指導法なき教育。
”人それぞれ”を謳い文句にするなら,きちんと相手の話を聴かないで
何が分かるのだろうか。教育者・指導者に限った事ではない。
経営者・管理職・誰だってあてはまる。「襟を正して」等と格好だけ
つけても,内在する心は変わらなければ,すぐに足下を見られるだろう。
日本語は曖昧語。同じ語でも,異なる意味で使われることもある。
説明する方も聴く方もお互いに,問いかけないと,すれ違う。
ネットの「文字だけ社会」では尚更だろう。
改めて思い,心に深く刻んでおきたいと思う。