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「自然法と民主主義」

自然法と民主主義  板倉聖宣

 
 ●自然法と人権思想
  「民主主義」という言葉を聞いたとき,私はまず〈民主主義というのはすばらしい〉とイメージ
 します。敗戦の時に,民主主義のすばらしさをとてもうれしく思いました。そこで,私の学生時代
 には,何かあれば民主主義,事あるごとに民主主義というぐらい「民主主義」という言葉を使った
 と思います。戦後30〜40年は民主主義という言葉が,「この紋所が目に入らぬか!」というくらい
 の力を発揮しました。ところが,十数年前から,〈戦後民主主義の虚妄〉とか〈戦後民主主義の神
 話〉ということが書かれるようになって,戦後の民主主義がいかにもナンセンスなものであるかの
 ごとく言われるようになりました。
  民主主義というのは,フランス革命のときにも,とても力強く訴えられました。〈自由・平等・
 博愛〉というスローガンのもとに訴えられたのですが,そのときにルソーやそのほかの人が考えて
 いたのは「〈個性〉というものを重要視する。〈個人の自由〉というものを重要視する」というこ
 とでした。そして,たとえ法律がなくても,いや「それに反する法律」というものがあったとして
 も,〈人間本来のあるべき姿〉というものを考えて,「自然法」という概念を作りました。これは,
 ルソーが〈ニュートン力学〉の成果を知っていたから作られたのだと思っています。
  〈科学の法則〉というのは間違っていることがあります。しかし,自然の法則そのものが間違っ
 ているはずはないですね。例えば,デカルトさんは〈衝突の現象〉のことを考えて,少しは実験し
 たのだと思いますが,デカルトさんが正しいと思った7つの法則のうち,6つが間違っていました。
  だけど,それを考えたもとの実験自身が間違えているはずはないでしょ。時々「実験が間違って
 いる」と言う人がいますが,あれはだめですよ。実験が間違うはずはないんです。実験の操作を間
 違えたり,自分の仮説が間違っていることはあります。デカルトさんの考えが間違っていたんであ
 って,自然が間違っていたんじゃないですね。自然の科学でもそういう間違いがあります。
  「社会の法則」とか「人間の法則」,「人間の幸せの法則性」というものがあるかもしれません。
 ふつう,法律というものは,〈みんなが幸せになるよう〉と考えて,作ります。日本語では,「法
 則」と「法律」と言葉を変えていますが,英語では両方ともlowで同じ言葉です。
  自然法=自然にある法則=〈自然の法則〉は間違っているはずはありません。しかし,だれかが
 つくった法則,これは間違っているかもしれません。そこで,〈その間違いが十分自明なときには,
 その法律や法則を無視してもいい〉というのが「自然法の概念」です。例えば,〈どんな場合があ
 っても人を殺してもいいはずはない〉というのが,「自然法の考え方」です。
  子どもたちを含めて,元来,〈人間に備わっている権利とか義務,そういうものを無視する権限〉
 は誰にもない。オウム真理教の人たちが間違ったのは,教祖の言っていたことはもともと正しいこ
 とがいっぱいあったから信者は従ったんでしょうけども,オウムの教祖が言った掟=法則よりもっ
 と上の,最も基本的な法則=自然法を無視したことであります。

 ●形式民主主義は人を縛る
  民主主義の社会というのは,いろんな規則を作ります。法律を作ります。学校の中で,職員会議
 でいろんな規則を作ります。しかし,その規則というのは間違っている可能性があります。「もし
 も,それが基本的人権を損なうようなものであるならば,それに従わない権利があるはずだ」とい
 うのも,自然法の考え方から導かれてきます。
  私には全く不思議なんだけれども,一時,日教組が「選挙で社会党を支持するように」とかなり
 押し付けたことがあります。それに従う人がいるというので,私はあわてて,「そんなことを決め
 たって,それに従ってはいけない。個人の自由を組合はそこまで束縛する権利はない。いや,そこ
 まで束縛するなら組合を脱退しなけりゃいけない」と言ったことがあります。そう言うと,「いや,
 そんなこと言われても,やっぱり組合の力がいるから」と組合に残る人がいたっていいわけですが,
 「組合に残っても,そんな組合の決定は無視しろ」と思うんですよね。そういうことができないと
 すると,民主主義というのはただただ恐ろしいもの,みんながみんなを束縛し合うものになってし
 まいます。
  民主主義というのは,しばしば〈お互いに縛り合うもの〉になる可能性があります。民主主義で
 みんなが決めたもの,多数決には従わなければならない。どうしても,従わなければならないとし
 たら,それは一種の「奴隷制」だということになります。
  敗戦後,民主主義の素晴らしさを知った私は,民主主義が汚されることが嫌いです。そこで私は,
 いろんなことを便宜的に決めることには従いますが,根本的に民主主義,人権や人間性に反するこ
 とには従いません。じっさいには,「弱いから従ってしまう」ということもありますが,「そうい
 うものには従わないのが正しい」と思っています。そう考えないと,民主主義というのはへたをす
 ると,「最後の奴隷制」になって,他人を縛ってしまうものになってしまいます。
  私は,民主主義にしても,それが一種の奴隷制にならないために,「自然法」という考え方が民
 主主義者の中に生まれてきたのだ,と考えています。私たちの世代の人びとは,大なり小なり,そ
 ういうことを知っている,と思っています。私たちは,民主主義というもののすばらしさを感動的
 に受けとめてきたから,逆にその恐ろしさというものも知っているのです。
  アメリカでは,憲法に〈人民は,大統領その他の人間が明らかに違法と思われることがあったら
 これをひっくり返す権利がある〉と謳われていたと思います。ところが,日本の憲法とか学校とか
 では〈決められたことには従わなければならない。違反してはならない〉ということばかりが重視
 されているようです。どんな法律,法則をも越えるもの,それが〈自然法〉というものです。そう
 いう考えを持っていないと,民主主義の恐ろしさというものが克服できないと思います。民主主義
 という形式的なもの,手続き,これは時と場合によっては最後の奴隷主義になるので,注意しなけ
 ればならない,と思います。

 ●投票率と刑務所
  もうすでに,民主主義がいろんなところで最後の奴隷制になっています。例えば,選挙の投票率
 が低下する。そこで,最近〈投票率が低下するのを防ぐには,選挙に行かなかった人間から罰金を
 取るのがいい〉というような議論をする人がいるので,驚きます。民主主義が効果的に実現するに
 は,みんなが選挙に行かなきゃいけないのは明らかです。だから,〈選挙に行かない人から罰金を
 取ろう〉などということになるわけです。いや,場合によっては〈選挙に行かない人は刑務所にま
 で入れなきゃいけない〉という議論にもなりかねません。実際に投票率が99%以上となる国があり
 ます。そういう国は,社会の仕組みが,投票に行かないことが刑務所に入ることに相当しているか
 らです。
  私は,〈今度の選挙に投票に行かない人が増えたのは,その人びとが仮説実験的な考え方をする
 ようになったことにもよる〉とも思っています。だって,そうでしょう。前々の選挙では,社会党
 の土井さんが「消費税反対」を強く訴えて,大量当選を果たしました。ところが,その社会党は何
 のためらいもなく,消費税値上げに賛成してしまいました。これでは「投票しても無駄だ」と思っ
 ても仕方がないではありませんか。それに,その次の選挙では,日本新党が旧政党にはない新鮮さ
 を売り物にして大量当選しました。その日本新党は細川総理を出して政界に新風を送ったと思った
 ら,旧政党と同じような汚職事件を起こして壊滅してしまいました。これでは「政党の公約や新鮮
 さに期待してもダメ」という実験結果が出たようなものではありませんか。そこで,固定票のある
 政党だけが成長することになってしまうのは当たり前というものです。それに私は〈今度の選挙に
 投票に行かない人が増えているのは,今の政治や社会に安心しているから行かないのだ〉と思って
 います。政治や社会があまり変わりばえがないから行かないんですよ。
  投票率が低いことは,民主主義にとって危険なことかも知れません。しかし,投票率が急に100%
 近くになる,ということのほうが私には心配です。そんな深刻な争点がある,という社会は不幸な
 社会だと思うからです。「棄権する権利,行かない権利」,そういうものまで含めて民主主義とい
 うものを考えていかないと,とんでもないことになると思います。
  私はそれでも民主主義というものを高く謳います。教育の中で民主主義というものを貫徹させた
 いと思います。しかし,それは民主主義というものは〈自然法〉つまり〈もっとも基本的な人間性
 に基づいているから〉と考えるからです。それに反するような民主主義なら,それは否定します。
 そういうことを十分初めから考えています。
  しかし,若い人たちの中には,〈みんなで決めたことはあくまで守らなきゃいけない〉と考える
 人がいます。そういうようなことを考えると,民主主義が嫌いになります。私は若い人たちが〈形
 式的な民主主義が嫌い〉なのは当然とは思いますが,恐ろしいと思っています。そんな時は,(今
 まであった民主主義)というものの理解を変えなければいけないと思うのです。

 ●指導要領と基本的人権
  ところで,指導要領というものは政府によって,民主的に作られたものです。ですから,それに
 学校の先生は通常は従うのは当然です。しかし,「この授業*1が良くて,こっちの授業は悪い,
 しかもこっちの方は指導要領に従っている」ということがあったりします。「仮説実験授業はすべ
 ての子どもたちに歓迎されていて,明らかにいい」と,校長までもが認めていながら,なおかつ「
 こっちの悪い授業をやれ」というのは明らかに基本的人権に反すると思います。認めていないのな
 ら別ですよ。ほんとは認めているのに言わないだけかもしれないけれど(笑)。
  子どもたちがイヤなことでも校長先生が先生に強制する。「指導要領にあるから,やらせなさい」
 と強制する。「アナタは地方公務員なんだから,子どもたちにやらせなさい。指導要領に従う義務
 がある」と言ったりします。それは確かでしょ。そのように,「子どもたちがつまんない授業でも
 やりなさい,すごく楽しい授業があるんだけど,それはやめなさい」と校長が言ったとすると,そ
 れは時の法律に従ってはいるけれども,自然法には従っていないことになります。そして,時と場
 合によっては,自然法を持ち出して,これを無視しなきゃいけないこともあると思っています。ほ
 とんど明解なときにはこれでいいんですけれどね。
  私の研究室にいる田中由紀江さんは,小学校の時,文部省の「学習指導要領」に従った理科の授
 業で〈たまごの孵化〉の実験をやらされたそうです。学校が理科の研究指定校で,担任の先生がと
 っても忠実に,〈たまごの孵化をさせてそれを割る〉という実験をやらせたのです。そこで,つい
 には〈死んだ卵の殻まで割る〉ということまでやらされて,それ以来,一切たまごが食べられなく
 なりました。そんな残酷な実験は,たとえ「学習指導要領」にやれと書いてあったとしても,やっ
 ちゃいけないのですよ。研究指定校の教師は,「これこそが指導要領の最先端をいくものだ」と思
 うからそんなことまでやってしまう。田中さんのように「一生,たまご気のあるものが食べられな
 くなった」ら相当大きな被害です。そんな授業はやってはいけないのです。
  教育は,そして文部省の「学習指導要領」は,本来,子どもたちがかしこくなるためにあるはず
 です。しかし,ときとして現実に合わないことがあるので,指導要領といえども,金科玉条*2で教え
 てはいけないのです。   
 『たのしい授業』(仮説社)1997.11号.6-12ペ

*1:仮説実験授業

*2:金科玉条:大切な法律や規定