magurit’s blog

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「間接民主主義を見直す」

 ◎直接民主主義の恐ろしさと、〈提案権〉と〈決定権〉のありかた
  板倉 聖宣

 ◆はじめに

  「世の中というのは、善意の人が多いとよくなって、悪意の人が
 多くなると悪くなる」と思っている人がたくさんいます。「それが
 国民常識だ」といってもいいかもしれません。これまでの教育では、
 その国民常識を克服できていません。大学で専門教育を受けた人ま
 でも、そういう常識だけしか持っていなかったりします。
  これは、社会のありかたとして、危機的なことです。
  例えば、多くの人は選挙のとき、「心のきれいな政治家」を選ぼ
 うとします。「賢い政治家」を選ぼうとはしません。けれども、
 「汚職をしない政治家」というのは、いい政治家なのでしょうか。
 そういう政治家は清廉潔白かもしれないけど、「国民の生活を向上
 させる」とか「悲惨さをくい止める」という面からすると、何もで
 きなかったりします。それなのに、教育の世界では、「よい政治家」
 というのは「悪いことをしない政治家」ということになっています。
  政治は「賢い人」が行わなくてはいけません。ここは新潟県です
 けれど、新潟のこの地域には有名な政治家で田中角栄という人がい
 ました。この人は、一般国民にとっては「悪い政治家」とされてい
 ますが、新潟の人々にとっては間違いなく「賢い政治家」でした。
 だから、他の地域の一般国民からいくら批判を浴びていても、田中
 角栄は新潟の人々に人気がありました。「賢い政治家」といっても、
 私腹を肥やすだけのずる賢さではありません。新潟の一般の人々に
 とって利益となる賢さなのです。いろいろ批判を受けましたが、確
 かに田中角栄という政治家のおかげで、新潟の人々の暮らしがかな
 り向上したのです。
  こういう問題は、「〈直接民主主義〉の方がいいのか、〈間接民
 主主義〉の方がいいのか」という問題と深く関わっています。善悪
 で物事を判断する人は、たいてい「〈直接民主主義〉の方がいい制
 度だ」と思いがちです。ところが、場合によっては〈直接民主主義
 ほど恐ろしい制度はないのです。
  大規模な公共工事がいいか悪いかをめぐって、直接住民の意思を
 問う直接民主主義が話題になったりします。個々の例を見ていけば、
 直接民主主義の制度の1つである「住民投票」によって是非を問う
 必要性は否定できません。そうせざるを得ない場合もあります。し
 かし、それが行き過ぎて「何でも直接民主主義で決める方がいい」
 ということにもなりかねません。そうならないように、せめて大学
 で専門教育を受けた人くらいは「直接民主主義の恐ろしさ」を分か
 って欲しいと思います。
  ドイツのヒトラーは、西欧の歴史の中でも「最も悪い政治家」の
 1人として有名になっていますが、ヒトラーはどうやって政治権力
 を得たのでしょうか。ヒトラーは、「民衆の支持がなかったのに軍
 事力を使って無理矢理に政権を奪った」のでしょうか。
  明らかに、そうではありません。選挙でドイツの民衆から圧倒的
 な支持を受けて政権の座についたのです。「ヒトラーは恐ろしい」
 ということは、言い換えれば「ヒトラーのような人を政権につけて
 しまった直接民主主義は恐ろしい」ということにもなるのです。
  直接民主主義の同じような例として、米国の「禁酒法」がありま
 す。「禁酒法」は一部の正義漢が強引に成立させたのではありませ
 ん。国民の3分の2以上という圧倒的多数の人々が賛成して、憲法
 を改訂してまで成立させたのです。そして、その後、いくら「禁酒
 法」が悪い結果をもたらす法律であることが明らかになっても、な
 かなか廃止することができませんでした。(禁酒法に関心のある人
 は、ぜひ、板倉聖宣禁酒法と民主主義』仮説社、を見てください)
  社会が良い方向に進むためには、「いい人」ではなくて、「賢い
 人」が活躍することが大切なのです。このことは早く社会の常識に
 なって欲しいことです。「賢い人」になるためには、「正義や善意
 を基に行動することが時として恐ろしい結果となる」ということを
 踏まえて、きちんと勉強しなくてはいけません。そういうことをき
 ちんと勉強しないで、自分の正義感や善意を振りかざす人が時とし
 て一番恐ろしい結果をもたらすことになるのです。このことをみん
 なに知っていて欲しいし、教えていく必要があると思います。

 ◆直接民主主義で混乱を招いた古代ギリシア

  同じ民主主義といっても、「直接民主主義」と「間接民主主義」
 とでは大きく異なる点があります。古代ギリシアの昔には民衆が
 政治問題に大して直接意思を表して決定を下す「直接民主主義」に
 基づく政治がおこなわれていました。古代ギリシアでは、その〈長
 所〉のおかげでみんなが団結して専制君主制のペルシア帝国の侵略
 を防ぐことが出来たのです。しかし、やがて〈直接民主主義の弱点〉
 のため、古代ギリシアは混乱し、結局、専制君主制のマケドニア
 国の支配を受けることになってしまいました。
  「直接民主主義」はどうして古代ギリシアの政治を混乱させてし
 まったのでしょう。それは、政策の決定だけではなく、政策の提案
 までも直接民主主義で行ったことにあります。人々の直観的な判断
 によって政治が動くために、専門的な議論や長期的な見通しよりも、
 言葉たくみな人の意見に従って政策が決められていくようになって、
 政治は混乱してしまったのです。
  それに対して「間接民主主義」というのは、政治を行う人を投票
 で選んで、〈自分たちの代表〉に政治をまかせる制度(代議制)で
 す。
  このような制度について、これまでは多くの場合、「本当は直接
 民主主義がいいのだけれども、あまりにたくさんの人がいて一度に
 は集まれないから、やむを得ず採用している制度」という説明がさ
 れてきました。
  ところが、現在ではインターネットが発達したので、日本の有権
 者全員が意思を直接表現することも、技術的に不可能ではなくなり
 ました。だから、直接民主主義にすることを考えたっていいのです。
 では、ほんとに直接民主主義の制度の方がいいのでしょうか。話は
 そう単純ではありません。

 ◆専門家と素人の判断の違い

  世界ではここ15年ほどの間に、社会主義政権が相次いで崩壊しま
 したが、それは社会主義国に「悪い政治家」ばかりいたからではあ
 りません。「賢い政治家」が出なかったからでした。「〈社会主義
 という理想の政治体制を、どんなことをしてでも守ろう〉という正
 義」を振りまわした「よい政治家」が、結果として社会主義が崩壊
 する状況を作り出したのです。
  社会の問題は、「心清き〈よい人〉が善意を持ってみんなを指導
 すれば、よい結果となる」というわけのものではありません。どん
 な分野においても、素人は社会の法則を無視した直観的な判断をし
 がちです。そして、その直観的な判断がただちに社会の進む方向を
 決めるものとなったら、恐ろしい結果をもたらす可能性があるわけ
 です。そういう「社会の法則」を、早くみんなの常識にする必要が
 あります。
  しかし、直接民主主義というのは、素人にもわかりやすい仕組み
 です。そのせいで、近頃はきちんと勉強しないで直接民主主義が好
 きな人たちが増えてきています。それは、住民投票などの直接民主
 主義によって、納得できる結果がもたらされたことがしばしばあっ
 たということも関係していると思います。
  直接民主主義によって良くなったこともあるでしょう。しかし、
 それでも、「だから直接民主主義が一番正しい方法である」という
 一般的な法則が成り立つのではありません。
  自然科学の立場からすれば、「心清き〈よい人〉が橋を作ればき
 ちんとしたものができるか」というと、そんなことは言えません。
 どんなに〈良い人〉でも、専門的な勉強をしっかりせずに作ろうと
 すれば、どんなに誠心誠意がんばっても、いい橋ができるわけはあ
 りません。いい橋を作ろうと思ったら、橋を造る専門家にまかせな
 くてはできません。
  また、どの医者が良い医者かを判断するのに、「みんなの投票で
 決める」ということはしません。もしもみんなの投票で決めるとな
 ると、病気を治すのが上手な名医ではなくて、患者への対応が上手
 な医者が〈よい医者〉として選ばれる危険性が大いにあります。ほ
 とんどの人は専門的な医学についての勉強をしていないのですから、
 自分たちにすぐわかる基準といえば〈患者への対応〉だけだったり
 します。しかし、〈よい医者〉のきちんとした判断がとても難しい
 のは当たり前のことです。
  橋や医者の例は、あまり抵抗無く認めてもらえるかもしれません。
 ところが、〈教育〉については、どうでしょう。
  学校教育においても、地元の人たちに学校の運営を全部まかせて
 しまっては大変なことになります。地元の人たちといっても、ほと
 んどは教育についてよく知らない素人なのですから、何か問題を起
 こした生徒がいると、「そういう悪いことをする生徒はわが学校に
 はふさわしくないから全部退学させてしまおう」ということにもな
 りかねません。教育の分野でも、専門的な勉強をきちんとした人が
 必要なのです。

 ◆「民主主義の危険性」を知って民主主義を守る

  これまで、「善意や悪意に関係なく〈社会の法則〉というものが
 あって、その法則をうまく使って賢い政治をすることが大切である」
 ということを教えた人はいたのでしょうか。
  
 ◆提案権と、決定権のありか
 (途中)