magurit’s blog

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2006.09.24(日) 読売朝刊より

  あたたかな愛 描く小説        評.川上 弘美
 
 『夏の力道山』 夏石鈴子 

  小説である。結婚して二人の子供のいる「わたし」が,会社で働いたり,
 家で食事の支度をしたり,洗濯したり,子供たちを保育園に連れていったり,
 夫の明彦にこっそりマカを飲ませたり,子供が寝静まったときにセックスを
 しようとしたりする,話である。
  夏石鈴子の小説のよろしさを,あげてみる。
 「面白い」「繊細」「ずばりその通りな感じ」「余裕がとてもある」
 「いい人ぶらない」「やさしい」「きびしい」
  小説で,「教え」のようなものが書かれていると,とても腹のたつときと,
 そうそうそれそれそうなのよと大きくぶんぶん頷くときと,二通りがある。
 夏石鈴子の小説は,後者だ。
 「セックスの一番の効果は『のん気』になるということかもしれない」
 「母親の一番大切な仕事は,子どもを正しく支配し,論すことだ」
 「人間,自分のパンツは自分ではく。それは大切なことです」
  どれも重要なことばかりで,日めくりカレンダーに編集して,
 つるしておきたい
  大きなドラマはない,日々のことごとを描いた小説だけれど,愛とは何か
 ということが,ものすごく端的に表現されている。家庭の中では,愛は,こ
 たつの上の,みかんの籠や手袋の片方や子供が半分食べたグミの袋や日に焼
 けた文庫本なんかに混じって,ひょっと,そこにあること。愛なんてそんな
 場所にはないと思っている人には,こたつの上の愛はぜんぜん目に入らない
 けれど,見える人にはきちんと見えていること。起伏に富んだ長い小説を書
 いてみても,なかなか表現しきれないことだ。
  そういえば,この小説の中に書かれている愛は,見えるだけでなく,さわ
 れる感じがする。「わたし」も明彦も子供たち二人も,毎日愛にさわりなが
 ら,生きている。抽象のすーっとした愛ではなく,でこぼこだったりするけ
 れど,あたたかでずっしりとした質量をもつ,愛である。
  (2006.09.24.日 読売新聞 朝 12頁 「本 よみうり堂」より引用)