今年は,教育問題が幾つも取りざされた*1。
その幾つかは,もう何年も前に問題として提起され,対策・方針も打ち出されていた。
つまり,「言葉だけの上下下達方式やペーパー・ワーク的な対策ではダメだ!」という
実験結果が示されたのだと心しなくてはならないのではないか。
「歴史は繰り返す」という言葉で,過去に蓋をしていく事が多いが,
まさに,「(学ばなければ)愚かな歴史は繰り返す」という事を強く噛みしめなくては
ならないのだろう。
十数年前にも「いじめ」に絡む自殺が相次ぎ,この時にも議論はなされている。
”再生委員会”の中から「出席停止」が強い口調*2で話題になったが,
11年前に提言され,5年前は運用しやすい(?)ように学校教育法も改正された。
それでも,運用しきれない。人間対人間さらに,それを括るように人間が上から監視するので
あるから運用もしにくいとも感じられる。
また,いじめを理由に進学する学校を選べることもこの25日の最終答申にある。が,この措置自体も
20年以上前に国が通知している。
では,教師や学校が手を抜いていると言うのだろうか?そういう人もいるかもしれないが,
概して,教師は”善意の人”である。どこの世界に教育に携わる人間で”この子供が愚かになる
ように指導しよう”等と考えるだろうか?
”子供と向き合え”という声も多い。が,子供に向き合うために,教師の(くだらないペーパー・
ワーク)多忙を解消するように配慮するのも先決だろう。そして,リーダーシップを取れるトップの
育成も大事だ。リーダーシップというと,「=権力的,恫喝的」な人物が幅を利かせることが多い。
だが,人間的魅力に乏しいリーダーには,誰も安心して付いて行くには逡巡するのではないか?
現内閣(この一つ前の独裁者もしかりだが)の言動を見れば一目瞭然であろう。
これを”教育問題”とだけに限定して見る事しか出来ないのでは,
あらゆる社会現象は「愚を繰り返す」に違いないと予想する・・・ああ,無情。
(典拠文献:2006.12.28・木曜 読売朝 解説部中西茂「潮流2006・いじめ自殺の教訓」)