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「大学入試・共通一次テスト」の運命(1978.9)

 (初出は『たのしい授業』1985年8月号(No.29)仮説社)

解説

  ここに紹介する文章は,『朝日ジャーナル』(朝日新聞社)の
 1978年9月25日号「ズームアップ’85」シリーズの一つに掲載され
 たものです。つまり,今から7年前に,今年1985年の共通一次試験
 をめぐる状況を予想したものです。
  なお,『朝日ジャーナル』の表題では「大学序列化への批判で廃
 止のうき目」となっていますが,それは編集部がつけたもので,著
 者がつけたものではありません。じっさい,本文を読めば必ずしも
 そういっているわけではないことがわかると思います。また,筆者
 の書いた文章のうち,誌面の都合からカットされた部分があります。
 その部分は〔〕を付けて載せておきました。
  ふつう,こういう「予想・予言」のたぐいは,当の年になるまで
 に忘れられてしまうものですが,幸い,大阪の山本正次さんがこの
 文章のことを思い起こして下さったので,ここに再録したわけです。
 7年前の予想がどれだけ当たり,どれだけはずれているか検討して
 みて下さい。
  いま,臨教審でいろいろ論議されていますが,「その政策が実施
 されたらどうなるか」と予想してみるの有益かも知れません。どう
 なるかわかりきったことが多いので,予言するのもバカらしいよう
 にも思えますが・・・・。(板倉聖宣

7年前の予言

  国立大入試のための共通一次試験は来年(1979年)から実施される。
 だからそれが続いているとすると,1985年には7年目の実施というこ
 とになる。さて,そのころの共通一次試験はどうなっているであろうか。
  そんなこと,予測できっこないようにも思える。入学試験制度のよ
 うなものは,偶然の要素によって支配されるところが大きいので,そ
 の将来を見極めることはほとんど不可能といってもよいだろう。いや,
 じつはこの共通一次試験の成立自体が,私には偶然的な出来事に思え
 てならない。この共通一次試験というのが,入学試験の何を変革しよ
 うとして生まれたのかまるで分からないからである。


  今日の教育が荒廃の極に達していることはほとんどすべての人びと
 の認めるところである。学校教育はおどろくほど普及したというのに
 (いや普及したからか?)中学生から大学院生に至るまで,学生・生
 徒の学習意欲はみじめなほど低下してしまっている。若者たちの自発
 性・創造性が著しく損なわれていることは,多くの人びとの憂えると
 ころとなっている。〔何のために学校があるか分からないような状況
 が生じているのだ。〕それにもかかわらず,多くの子どもたちは,身
 の入らない受験勉強に追いまくられている。親は子に少しでも「より
 よい学歴」を与えるためにその尻を叩かなければならない状況に追い
 こまれている。

  一体何が悪いのか。大部分の人びとには分からない。かつては日教
 組(教師)や文部省(政府)が悪いのだ,という宣伝も効果をあげた
 が,今ではそういう宣伝はあまり信じられなくなっている。人びとの
 不満はうっせきするばかりである。そこで選挙ともなると,どの政党
 も教育問題を大きくとりあげざるを得なくなっている。しかし,どの
 政党の主張も,人々に希望を与えるようなものとなっていない。

  だからといって,政府や教育関係者は何もしないでいることはでき
 ない。人びとの間にうっせきしている不満が爆発しないように「当局
 者も何とか努力しているのだ」と誠意だけは認めてもらわなければな
 らない。そのためには入学試験制度に手をつけるのが一番手っとり早
 い。入試制度が日本の教育のカナメのような存在になっていることは
 周知のことだからである。そこで,共通一次試験なるものが生まれた
 ----そうとでも考えないと,この問題はどうも理解できないようだ。


  共通一次試験が入学試験地獄を解決して今日の教育問題の解決の切
 り札となりうるか。そんなことは問題ではない。ただ「改革」と称し
 うるような新しいことをやってみて,その場をのがれることだけが問
 題なのだ,というわけである。ずいぶん意地悪な見方だといわれるか
 もしれない。しかし,私にはそうとしか見ることができない。

  日本の入学試験制度の「改革」はこれが最初ではない。全国統一テ
 ストだけをみても,明治期と大正期に全国の旧制高校の入試に総合選
 抜試験制度を採用したことがあり,敗戦後に「進学適性検査(知能検
 査)」(進適)や「能力開発研究所テスト」(能研テスト)を採用し
 たことがある。しかし,そのいずれも長つづきしなかった。明治期の
 高校総合選抜制は6年つづいたが,大正期のそれは2年しかもたなか
 った。また,進適は8年,能研テストは5年で廃止となっている。

  それらの「改革」とくらべると,今度の制度はかなり長い年月をか
 けて世論づくりの準備をしてきたというちがいはある。だから,この
 制度の推進者の側からすれば,そう簡単にその「改革」から手を引く
 ことはできないであろう。しかし,今日の入試制度問題は以前よりも
 ずっと深刻なものとなっている。だから共通一次試験の弊害をさらに
 改革するプランの提出をそう遅らせることはできないであろう。そこ
 で,おそらく1985年ころには次なる改革プランが問題となるか,共通
 一次試験以前の状態にもどすか,いずれかの状況となっているであろう。


  共通一次試験は,それまでにどんな弊害をあらわにすることになっ
 て,人びとの不満のたねになるだろうか。
  まず第一に,大学間の格差が今よりずっと明確に浮かび上がってく
 ることは確実といってよい。それで少しでも序列の高い大学に入学し
 ようとする受験生は,テスト業者や予備校など受験産業界に大きく依
 存するようになる。受験産業界や週刊誌はこれまでの大学別入試時代
 よりずっとたしかなデータをにぎることになるから,大学格差情報を
 センセーショナルに公表するようにもなる。そうなったらこれまで共
 通一次試験の実施に無関心だった大学の先生方も無関心でいられなく
 なる。各大学のOBも不安にかられることになる。すべての大学を共
 通一次試験の成績で一直線に並べて序列をつけることに反対する世論
 がもりあがることになるであろう。

  全国共通のテストで全国の受験生を序列化すれば,それは受験生の
 精神状態にも深刻な影響をあたえずにはおかない。共通一次試験の成
 績は,これまでのテスト業者の模擬試験の成績よりもはるかに権威の
 あるものだから,「自分は全国の受験生の中でどのくらい成績だ」と
 いう記憶がその後の生き方に深刻な影響を及ぼすことにもなろう。そ
 してそれはまた全国の大学の格付けにつながっていくのである。そう
 なれば受験生は合格確実と判定のつく地元の大学よりも,ぎりぎりで
 合格しそうな遠い大学を受験することを動機づけられ,合否のメドを
 つけるのはやはり困難となってくる。

  実際,今日の高校は業者の偏差値テストによって見事に序列化し,
 受験生はそれに振り回されているが,それと同じものが大学をも支配
 することになるのである。

  それなら,共通一次試験は高校の教育にはどのような影響を与える
 だろうか。これが高校教育の画一化を推進することは目に見えている。
 それは意欲的な少数の高校教師にとっては迷惑至極のこととなるが,
 多くの高校教師にはありがたいことと映ずるようになるかもしれない。

  それなら,画一的な共通一次試験の束縛から脱出することはできな
 いかというと,そうではない。私立大学はこれを機会に多様な入試制
 度によってこれまで異常に沢山の受験生を獲得することができるよう
 になるだろう。

  共通一次試験のほとんど唯一のうま味は,国公立大学の先生方の入
 試の手間の一部をコンピューターに肩がわりしてもらえることにある。
 共通一次試験というのは,もともと,その浮いた労力を論述試験・面
 接試験などこれまで労力的に実現困難とされていた試験法の採用に振
 り向けることをたて前としていたのだ。だがそういった新しい型の試
 験法が急速に伸びるとは思えないし,そういう試験法が採用されたか
 らといって,今日の入試問題が緩和されるとは思えない。どんな試験
 法を採用しようと,大学の序列化をくずさない限り,学歴主義競争に
 根ざした入試過熱が解消しないことは目にみえている。論述試験・面
 接試験のための予備校が繁盛するようにでもなったら,入試というも
 のは今よりさらに無意味な,こっけいなものとならないだろうか。大
 学と予備校のだましあいが公然化することになるのだから。


 〔 今日の日本の学校教育の危機を突破するには,全国の子どもたち
 を同じテストの成績で序列化するのとは正反対の方向にある。戦後日
 本の教育者は,「教育の民主化とは,すべての子どもに同じことを同
 じように教えることだ」と思いこんできた。そして,各人がその個性
 に応じて多種多様な教育をうける権利をないがしろにしてきた。同じ
 ことを同じように教わり,同じようにテストをすればそこに競争がお
 こる。「そういう競争をさせれば,子どもたちは否応なく勉強に追い
 こまれるだろう」という計算もなかったとは言えないだろう。保守・
 革新の別なくいまなおそんな教育法をもっとも効果的なものと考えて
 いる人の数は少なくないのである。しかし,そういう競争におちこぼ
 れた子どもにとって,行く道は無気力か,非行に走るしかない。そし
 て,実はなんとか競争についていかれる子どもたちもウンザリしてい
 るのだ。〕

  今は教師と子どもの個性にあわせて教育内容を魅力ある多様なもの
 にしていくことこそが求められているのだ。そのことを改めて見直す
 までは,入試制度の「改革」はたんなる見せかけだけの思いつき的改
 革におわりつづけるであろう。1985年ころの,日本の世論がそのこと
 に気づき,真の入試改革の道をとりはじめるようになるかどうか,私
 には全く疑わしく思える。しかし共通一次試験がそのための反面教師
 の役をはたしてくれるかもしれない。〔と少しは期待しているところ
 である。
  共通一次試験の問題がうんと基礎的なものになって,資格試験の性
 格をもつようになり,論述試験その他の試験がクローズアップしてく
 るといった変化も考えられないことはないが,私にはあまりいい方向
 にすすむとは期待できない。〕
(『社会の法則と民主主義』1988.6.10仮説社)