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『上を向いて歌おう』

 

上を向いて歌おう 昭和歌謡の自分史

上を向いて歌おう 昭和歌謡の自分史

           
 永六輔氏と矢崎泰久氏の対談集。
 昭和34年からの永さんの作詞した曲とその年の出来事と絡ませていく。
 ”中村八大・坂本九の話”も。歌詞を通じて時代を振り返っていく。
 対談の前頁見開きに「その年に書いた詞・世相・物価・ヒット曲・ベストセラー・テレビ
 ・CM・テレビ・映画等」が記載されている。
 私が知っている曲は,
  ・上を向いて歩こう昭和36年
  ・遠くへ行きたい(昭和37年)
  ・おさななじみ,続おさななじみ,おさななじみ〜その後
   こんにちは赤ちゃん・見上げてごらん夜の星を(昭和38年)
  ・ともだち,女ひとり(昭和40年)
  ・いい湯だな(昭和41年)
  ・筑波山麓合唱団(昭和42年)
  ・生きるものの歌(昭和50年)
 ぐらいですねぇ。

 「音楽センスは,三味線とドイツ音楽から?」
 矢崎・・・永さんの音楽の原点って,そもそもどこにあるの?
 永・・・・生まれが浅草だから,近所に長唄のお師匠さんがいて,
      毎日のように三味の音を聴いていましたからね。それが
      原点といえば原点かもしれない。
 矢崎・・・西洋音楽に触れたきっかけは?
 永・・・・戦前,戦中に聴いていたドイツ音楽,あとは親父が唄って
      いた田谷力三の浅草オペラ。
 矢崎・・・クラッシック音楽なんか,どこで聴いていたの?
 永・・・・聖路加国際病院(笑)。
      (中略)
 矢崎・・・ふーん。永さんの音楽センスは,三味線とドイツ音楽で養わ
      れたというわけね。

 奇しくも”うめ吉さん”の話とクロスしたような・・・(笑)。
 帯にはこうある。

 (表)
  『上を向いて歩こう』『こんにちは赤ちゃん』『いい湯だな』・・・・
  思わず口ずさんでしまう昭和の”流行歌”はどのようにして生まれたのか?
 (裏)
  作詞家になったのは偶然だったんです。当時(昭和三十四年)はロカビリー・
 ブームで,有楽町の日劇では何度もウェスタン・カーニバルが行われていました。
 ある日たまたまその日劇の前で中村八大さんとバッタリ会った。そしたら,「あ
 なた作詞をしたことがありますか?」と聞くわけ。「いえ,ありません」「じゃぁ,
 作詞をする気はありますか?」「はい,やります」って(笑)。向こうは早稲田の
 先輩で大スター。そのおそばで仕事ができると思えばうれしいじゃないですか。た
 だ八大さんは「明日の朝までに十曲つくらなきゃいけない」というわけです・・・。

 ちょっと,立ち止まって読むのにいい本です。