- 作者: 伊藤比呂美
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/06/12
- メディア: 単行本
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『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』”わたくしごとに潜む普遍”
この本には,伊藤比呂美という作者の,どうやらわたくしごとが書いてあると思われる。ア
メリカに住みイギリス人の夫と結婚し,熊本にいる両親のうち母は脳梗塞を起こし,父も次第
に衰え,遠くにいる娘が病んだと聞けば車で一日走って行ってなぐさめ,熊本の母が足が痛い
と訴えれば熊本に行って幾つもの病院を巡る。
ものの本にわたくしごとと思われることが書いてあってうたれる時,私はその作者だけにふ
りかかっている壮絶なできごとの内容と描写に,遠くからひれふすのである。この本に書いて
あるわたくしごとに,私はうたれひれふしたけれど,同時に,この本にあるわたくしごとは,
この作者にだけふりかかっているのではなく,世界中の女や男全部にふりかかっている壮絶さ
なのだと感じて,遠くからではなく,近々とうたれた。作者だけのわたくしごととは思われな
い,「普遍」というようなものを感じた。
どの章の最後にも,「○○より声をお借りしました」とある。○○は,宮沢賢治の詩や説経
節やカフカの変身や山口百恵の歌,過去に書かれたさまざまな言葉である。作者の声だけでな
く,いくつもの声を響かせたから「普遍」なのかとも思うけれど,それだけではない。「お借
りした声」は,文章の中にするっと潜まされていて,作者の文章とほとんどみわけがつかない。
それなのに舞台の上手からも下手からも客席からもあらゆるところから声が響いて途切れなく
続いてゆくような心地なのである。
この本を読んで,私は,身につまされなかった。身につまされる,とは,共感するけれど最
後は他人ごと,ということである。私は作者に共感なぞしなかった,それよりもっと自分の生
活の中の壮絶さ(目をそむけたり忘れたふりをしたいけれどそんなことはできるわけないもの)
についてばかり,考えていた。読むのがつらい本だった。剣呑だった。巣鴨に行って私も地蔵
に手をあわせたくなった。巣鴨は遠いのでかわりにもう一度繰り返し,この本を読んだ。
◇いとう・ひろみ=1955年生まれ。
(2007.07.22日曜・読売朝引用)